新潟・弥彦の旅 #1

今日はFくんと新潟の弥彦温泉と寺泊あたりをめぐる一泊の旅行です。今回のクルマはFくんのピカピカの新車Fozzyです。

鶏わっぱ

途中、越後川口SAで鶏のわっぱご飯の昼飯。旅館の夕飯に備え少なめの量を狙って正解でした。

■椎谷観音堂

椎谷観音堂_goproDSC_9616

どこで観光するかは、その場でサーチ。Fくんが見つけたお寺がよさそうということで向かったのは柏崎にある椎谷観音堂でした。写真の上はGoProの動画切り出し、下はD800。D800が旅についてきたのはもう何年振り?

ということで椎谷観音堂とは?案内板からの引用です。

 今より千二百余年の昔、嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)のこと、当椎谷の海に毎夜不思議な光が現れました。村人達は何の光かと思い、網を下ろしますと正観世音菩薩の御像が上がりました。村人達は山の上に立派な御堂を建て、御像を安置しました。
 それから八〇〇年余の寛永元年(一六二四)の冬、山伏がこの御堂に泊まり、暖を取るため仏像などを燃やし、本尊様をも燃やそうとしました。するとその瞬間轟然たる大音響、百雷が一時に落ちたかと思われる様な恐ろしい音がし、御堂は焼け落ちてしまいました。御堂に行き火を消し本尊様の御像を探しましたが見当たりません。
 ちょうどこの時、佐渡の国羽茂郡宿根木村の丸山治久という人が有りました。最早五十歳になるのに子どもがありません。そこで遥か海を隔てた椎谷の観音様のご利益を信仰し、何卒男の子を授け賜えと一心にお願いし、観音様のお告げを蒙って可愛らしい男の子を授かりました。名前を忠三郎とし、それはそれは大切に育てました。この忠三郎さんは僅か二歳か三歳で最早立派に読み書きが出来る世にも稀な天才児でした。治久さん夫婦はいよいよ可愛がって育てます内に、寛永七年となり忠三郎さんが七歳の正月十七日、別段苦しむ様子もなく眠るように息絶えて死んでしまいました。葬儀を営むこととなり、時にお母さんが今一目と御棺の蓋を取ってみると、御棺の中には忠三郎さんの影も形もありませんでした。
 お母さんが不思議なことに思われて
    玉手箱 両親ここに 置きながら 掛子は抜けて 何処なるらん
と詠まれました。すると何処からともなく
    吹き散らす 風にうらみは 春の花 紅葉の秋に 一葉残らん
と言う返歌がありました。
 忠三郎さんが死なれた前夜、椎谷観音堂の住職の夢に観音様が現れ「我は佐渡の丸仙治久が切なる願いに答えて、彼が一子忠三郎となって生まれたが、今又帰る時節が来たので当山に帰るであろう」というお告げがありました。翌日山に登り御堂を開いてみますと、昨日まで居られなかった本尊様がお帰りになられました。今この御本尊様を秘仏として、住職一代に一回の御開帳としています。
現在の御堂は明和七年(一七七〇)のものです。

ということで観音堂は茅葺屋根の綺麗なお堂でした。

日本海と佐渡

観音堂は海沿いにあって、ちょっとした駐車スペースと展望台。そこから遠くに佐渡島が望めました。

観光の後は買い出し後宿へ。今日の宿は四季の宿みのやさんです。いつも泊まるようなこじんまりした旅館とは少し違って、かなり大きな宿でした。ということで今日の夕食。

みのや夕食IMG_1302

量は少なめというプランですが、酒飲みにはちょうどいいし、飲まなくても十分かな。大き目の旅館ですが、清潔だし無線LANもあって便利、当然ウォシュレットと足りないものがない充実感があります。なんといってもうれしかったのはお風呂。最上階に温泉と露天風呂があることはわかってたんですが、大好きなサウナまでありました。

明日は弥彦神社にお参りして寺泊でも行こうかという感じです。

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