坂東三十三観音 #3,4,6,7

先週末から始めた、坂東三十三観音の午歳特別結縁巡礼。今日も鎌倉へ。

先週頂けなかった杉本寺の散華を入手も含め、参れるだけ参ろうと早めに出発するつもりが寝過ごしてしまったものの、10時前には杉本寺近くの民営駐車場に到着。杉本寺にて、境内図をよく見ると、先週見ていないものがあったことも分かった。拝観料をお納めする際、「本堂は奥まで入れます」との担当者から案内。先週のおじさんはそんな案内は全くなしだったので、当然本堂の奥には入っていない。もう一回来なさいということだったのかと少しは納得した気持ちになる。本堂の奥に入ると本尊が祀られており、やはりまた来てよかったと思う(あとで分かったが18日だったので入れたようである、これも今日来なさいという意味だったのかとまた納得)。そして納経所へ行って事情を話し、散華を無事頂くことができ、次の安養院へ向かう。

■第3番 祇園山 安養院 田代寺(田代観音)

宗派:浄土宗
本尊:千手観世音菩薩
詠歌:枯樹にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき

bando33_rs03 bando33_sg03

安養院には駐車場があるが、数台分しかないため満車の場合は困りそうであるが、今日は一台も停まっていなかった。このお寺について、ウィキペディアの引用方法もついでに習得したので引用してみることにする。

『この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係している。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。本堂内には寺の本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代)の背後に札所本尊の千手観音立像(江戸時代)を安置する。』

-引用- 「安養院 (鎌倉市)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
2014年1月12日 (日) 12:20 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

安養院本堂石造宝篋印塔(重文)と北条政子供養塔

一方、境内に設置された鎌倉市の案内板によると、
『尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました』
とあり、こちらの方が簡潔で分かりやすい。

拝観料は100円。まず本堂をお参りしたのだが、平成5年にお参りしたときは中に入れたかすかな記憶があるが、今日は入れなかった。内陣には金色の阿弥陀様が見え、その背後に千手観音様が安置されているとのことだが、観音様は見えない。本堂の裏側には右側に石造宝篋印塔(重要文化財)と左側に北条政子の供養塔が並んで建っている。それほど大きな境内ではないが、明るく落ち着いた雰囲気のお寺。御朱印を頂き、次の長谷寺へ向かう。

■第4番 海光山 長谷寺(長谷観音)

宗派:単立(浄土宗)
本尊:十一面観世音菩薩
詠歌:長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波

bando33_rs04 bando33_sg04

長谷寺は門前も賑わう大きな寺で、駐車場も有料だが大きめであるので、クルマでの参拝もしやすい。長谷寺について、同じく境内に設置された鎌倉市の案内板から引用する。

長谷寺観音堂

『本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈良県)の初瀬の山中で見つけた樟の巨大な霊木から、二体の観音像が造られました。一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一帯が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。』
と、なんとロマンのある話ではないか。入山料として300円を納め山門を入ると左右に池があり石段を登って、地蔵堂、更にその上に鐘楼(梵鐘は重文)阿弥陀堂、観音堂、大黒堂が立ち並ぶ境内上部に出る。観音堂の巨大な木造の十一面観音様をお参りし御朱印を頂く。

長谷寺経蔵長谷寺弁天窟

大黒堂のさらに奥には経蔵があり、輪蔵と呼ばれる形式で蔵内には一切経が納められている。この輪蔵を時計回転へ一回まわすとそれだけで経典を一通り読んだのと同等の功徳があると言われている。なんとこちらも観音縁日である18日に限り回せるとのことで運がよかった。なお同じ形式の経蔵が坂東三十三観音第16番水澤寺にもあり、そちらはいつでも回せるので何度か回したことがある。

大黒堂と経蔵の間には眺望散策路の入口があり、行ってみると途中に小さな千手観音様。更に進むと鎌倉を一望できる場所に続いている。観音堂と同じ高さの見晴台よりも高く、散策路自体一周するのもそれほど時間を要さないので余裕があればお奨めである。それと面白い見所としては下の境内にある弁天堂の奥にある弁天窟。洞窟になっており壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られていて独特な雰囲気であった。

本来であれば次は第5番の飯泉観音と行きたいところだが、場所は小田原とかなり遠いため、帰る方向に向かいながら第7番の金目観音を目指す。

■第7番 金目山 光明寺(金目観音)

宗派:天台宗
本尊:聖観世音菩薩
詠歌:なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ

bando33_rs07 bando33_sg07

光明寺は神奈川県平塚市にある。このお寺に関してはこんな場所にこんな感じで建っているという記憶がかなり残っているつもりだったが、着いた場所も景色も正直記憶とは違っていた。駐車場があるので心配していなかったのに、着いてみると満車。どうやらここも18日でなにやら行事(あとで調べると初観音会護摩供だった)をやっているらしかった。はてどうしたものか。そう言えば近くにコンビニがあったなと少し置かしていただいて(ちゃんとその後買い物はしました)お参り。

光明寺について。
『伝承によれば702年(大宝2年)に海女が海中から観音像を得たという。その後道儀上人が一宇を建立しこの観音像を安置したのが光明寺の始まりという。』

-引用- 「光明寺 (平塚市)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
2014年1月22日 (水) 08:23 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

歓喜堂と本堂

境内に入るとなにやら賑やか。行事でお参りに来ている人の他、坂東を巡礼しているツアー団体も。団体さんは、本堂からかなり離れた場所で本堂に向かって勤行をしていて気遣いされてるのだなと少し感心。なお、本尊を安置する本堂内の厨子が国の重要文化財になっている。お参りの後、納経所に行くと先ほどの団体さんの納経帳が御朱印待ちの状態。御朱印をくださる人が一人だったため、ここで時間かかると今日はこれでお参り終了かと心配したが、大抵は個人の場合途中で割り込みさせてくれることが多く、今日も先に御朱印いただくことができた。面白かったのは御朱印担当の方が個人が来るたびに「先にこちらを入れてよろしいですか」と団体さんのツアコンに毎回聞くものだから、ツアコンさん、「どんどん入れて書いちゃってください」と返していたこと。いちいち聞かなくてもいいよとさも言いたさげだった。

さて時刻はまだ14時半、次は飯山観音である。

■第6番 飯上山 長谷寺(飯山観音)

宗派:高野山真言宗
本尊:十一面観世音菩薩
詠歌:飯山寺 建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく 松風の音

bando33_rs06 bando33_sg06

長谷寺は厚木市にある。現地には15時半ごろ到着したが、あまり参拝客はなく、駐車場も十分広かった。

長谷寺本堂長谷寺からの眺望

境内は山の上にあるということもあってか、荘厳な雰囲気が漂う。本堂でお参り後、本堂向かって左側にある納経所で御朱印を頂く時、午の土鈴が売っていたので、一緒購入した。歳男なので。境内には本堂のまわりを一周するような感じで坂東の第一番から三十三番までの観音様像が並んでおり、順に参拝できるようになっている。

なお、縁起には2説あるそうで、五色に輝く清水が湧く泉から十一面観音が現われて行基の持つ托鉢の中へ入ったことで、行基は観音像を刻み、泉の観音像を胎内に納め堂宇を建立したとする説と、領主飯山権太夫が旅僧を家に泊めると、僧侶(空海だった)にお礼にと大和長谷寺の本尊と同じ木で彫刻した一体の十一面観音を授けられ、観音堂を建立したとする説。

ということで今日は杉本寺含め5寺も巡ることができた。早起きするに限る。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です